アフリカ世界遺産

サン=ルイ島(セネガル)

アフリカ大陸の西部にあるセネガル共和国という国をご存知でしょうか? 私たち日本人からするとあまり馴染みのない国名かもしれませんが、2002年の日韓ワールドカップにおいて下馬評を覆す快進撃を繰り広げ、見事ベスト8に輝いたのを覚えているという方もいらっしゃるのではないでしょうか。サン=ルイ島は、そのセネガル北西部にある島で、ちょうどセネガル川の河口あたりに位置しています。大西洋を望む美しい三角州で、中心にある同名の都市:サン=ルイには情緒ある街並が広がっています。

さて、このサン=ルイ島はセネガルに5つ存在する世界遺産の1つなのですが、どういった理由で世界遺産に登録されているか想像がつきますか? 歴史が古く美しい市街地、というだけの理由で文化遺産となることはありませんし、同様の絶景が見られる島は世界中を探せばきっとまだまだ見つかることでしょう。

実は、ここサン=ルイは17世紀にフランスによる植民地支配の拠点として築かれた街なのです。歴史がお好きな方であればサン=ルイという名前にピンとくるものがあるかもしれませんね。サンはフランス語で「聖なる」という意味で、英語の"Saint"(セイント,セント)にあたる語。そしてルイの部分はかの有名なフランス国王――ルイ14世を指します。フランスの国力を高めたルイ14世を、聖なる王として崇める意味を持って名付けられました。そして、重商主義と呼ばれる貿易重視の方針によって国力を拡大していたフランス王国が西アフリカへ勢力を広げる際に最初の拠点としたのが、サン=ルイだったのです。

しかも、後にこのサン=ルイが西アフリカの拠点としてより栄えることになったのは、奴隷貿易の隆盛という痛ましい理由によるものでした。当時、ヨーロッパの武器や日用品をアフリカで原住民と交換し、その原住民を新大陸:アメリカへ輸送、そしてアメリカ大陸で生産された砂糖をヨーロッパに持ち帰るという、いわゆる三角貿易(大西洋三角貿易)が繁栄していました。そのアフリカ拠点として、大西洋に面した港町であるサン=ルイが適していたわけです。当時の貿易商たちの間では黒人奴隷を「黒い積み荷」、砂糖を「白い積み荷」と呼ぶなどしており、完全にアフリカ原住民を道具のたぐいとしか見ていなかったことが窺えます。この奴隷貿易で大きな収益を得たフランスは、西アフリカ地域を次々と植民地化し、セネガルやコートジボワール、マリ、ニジェールを始め現在の地図で見た場合、8ヵ国に相当する範囲を掌握――フランス領西アフリカとして属国化しました。そのフランス領西アフリカの首都は、もちろん最初の拠点となったサン=ルイでした。

このサン=ルイが世界文化遺産として登録された理由は、かつて植民地経営のために建設された建物が現存しており、植民地支配の様子を知ることができるため。美しく整備された街並は、効率良く植民地化するために練られた都市計画の賜物、というわけです。こういった負の歴史も帯びた街並ですが、そうした事実を知った上で訪れると表面上の美しさだけでなく、アフリカ諸国が独立を勝ち取った現代――この21世紀の価値を再認識するきっかけとしても強い印象を与えてくれるのではないでしょうか。

現代のサン=ルイは植民地支配の歴史が残る一方で、ガストン・ベルジェ国立大学が置かれ、鉄道も整備された近代的な都市として発展しています。ちなみに、まだフランス領だった1904年に首都はダカールへと遷っており、2011年現在もセネガル共和国の首都はダカールとなっています。例えるならば、日本の京都のように文化的・歴史的側面が色濃く残った古都としての価値を有する都市といえるでしょう。

【コラム:同じ名前の街】

・サン=ルイ島(フランス)

セーヌ川の中州にある島で、パリ発祥の地などと呼ばれる由緒ある土地です。サン=ルイ=アン=リル教会などがあることで有名。名前の由来はもちろん聖なる王――ルイなのですが、こちらはルイ9世を指しています。キリスト教の聖地:エルサレムをイスラムの手から奪回するために組織された十字軍の遠征に尽力したことなど多くの功績から、カトリック教会によって正式に聖者の列に加えられた13世紀の仏国王ですね。

・セントルイス(アメリカ)

「いったい、どこが同じ名前?」と思った方もいらっしゃるでしょう。しかし、前述したようにフランス語の「サン」は英語の「セント」に相当します。そして仏語の「ルイ」は"Louis"と綴るんです。これを英語圏の人が読むと「ルイス」となり、実はサン=ルイの英語読みがそのままセント=ルイスになるんですね。アメリカが新大陸として植民地化の対象だった時代、フランスによって毛皮取引施設が作られたことがセントルイスのはじまりです。こちらも名前のもとになったのはルイ9世。

【コラム:フランス領西アフリカ】

近世に入っても拡大を続け、第一次世界大戦前にはフランス植民地を広げてアフリカ大陸の西から東までを一直線に獲得しようとする「アフリカ横断政策」の西側拠点ともなりました。ただ、この政策はイギリスが目指した南アフリカ:ケープタウンからエジプト:カイロまでを支配下とする「アフリカ縦断政策」と衝突。アフリカ中部のスーダン:ファショダでフランス軍とイギリス軍がにらみ合う事態にまで発展しましたが、フランス側が折れる形で決着しました。(ただ、一説によればフランス軍は200名程度の規模だったのに対し、イギリス軍は2万を超える大軍だったとも言われています。これならばフランスが譲歩することになるのは当然ですよね)

その後、英仏両国は第一次大戦において手を取り合うことになり関係は良好に転じ、終戦後にはフランスがカメルーンやトーゴを敗戦国:ドイツから獲得。フランス領西アフリカはさらに拡大しました。

第二次大戦中になると、宗主国(植民地に対する主人の国)であるフランスがナチス=ドイツの電撃戦の前に敗れ、あっさりと降伏。フランスは実質的にドイツの属国となったヴィシー・フランス(代表者:ペタン)とロンドンに亡命して枢軸国に徹底抗戦する自由フランス政府(代表者:シャルル・ド=ゴール)に分裂します。この時、フランス領西アフリカはヴィシー・フランスを支持する立場を取りました。

第二次大戦後、ド=ゴール政権の下でフランス共同体が組織され、仏領南アフリカは解体されました。その後、地道な独立運動が繰り広げられ、アフリカ諸国のうち多くは1960年になってようやく独立を達成――植民地支配を脱したのでした。アフリカ諸国が自由を手に入れた、この1960年は今でも「アフリカの年」と呼ばれています。

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