フランス世界遺産

アヴィニョン歴史地区:教皇庁、大司教座総体およびアヴィニョン橋

南フランス・プロヴァンス地方の一都市、アヴィニョンは、かつてローマ・カトリックの教皇庁があった地です。この中で、ローマ・カトリック教皇庁時代に多く残された遺跡周辺は、1995年、「アヴィニョン歴史地区」の名称で、世界遺産に登録されました。

教皇庁は、カトリック教会が発足して以来、ずっとローマ(若しくはヴァチカン)にあると思っている方も多いと思いますが、歴史上でただ一度、教皇庁、つまり「キリスト教の都」がアヴィニョンに遷都したことがあったのです。その時に建てられた建築物は現在にまで受け継がれ、キリスト教の歴史を語るのに欠かせない場所になっています。

カトリック教会総本山がアヴィニョンに移るきっかけになったのは、1294年にローマ法王に選出されたイタリア人司教、ボニファティウス8世の権力乱用です。ボニファティウス8世は、「国王の権威は教会に隷属するものである」という考えを、強固なまでに貫きました。そのために、フランス王とローマ教皇は、権力を巡り、激しい争いを繰り広げるようになりました。腐敗したローマ教皇に対して、フランス側は教会税の納税をストップし、そのことでボニファティウス8世の怒りを買い、フィリップ4世は一方的に廃位を宣告されました。すると今度はフランスがボニファティウス8世をフランスに連行するために、ローマの地に大量の軍を送り込みました。その結果、ローマ教皇の連行に成功し、教皇庁の権威は失墜することになりました。

その後、ローマ法王に選出されたのは、フランス人であるクレメンス5世です。クレメンス5世は旧ボルドー大司教で、フィリップ4世の強い後押しでローマ法王に即位しました。そして、即位4年後、クレメンス5世は、壮大な計画を実行に移します。それは、教皇庁を、ローマからフランスのアヴィニョンに移す、というものです。それ以来約70年に渡り、後の「アヴィニョン歴史地区」を形成する、重要なカトリックの施設を建築し続け、7人の法王がアヴィニョンの地で実権を握りました。この7人の法王は、全てフランス人です。

アヴィニョン教皇庁時代に終止符を打ったのは、グレゴリウス11世です。グレゴリウス11世もまたフランス人で、クレメンス6世の甥に当たる人物ですが、1377年に、教皇庁を再びローマに戻しました。こうして、アヴィニョンの教皇庁時代は、幕を閉じたのです。

「アヴィニョン歴史地区」には、クレメンス5世以降の教皇が居住していた「教皇宮殿」が現在も残されています。「教皇宮殿」は、クレメンス5世により1342年に完成しましたが、その外観と内装は至って質素なものでした。その後、クレメンス6世の時代になると、今度は豪奢な様式が付け加えられました。それは、クレメンス6世が大貴族出身で、元から派手なものを好む傾向があったからです。クレメンス5世が建てた、北側の「旧宮殿」と、クレメンス6世が建てた南側の「新宮殿」には、それぞれの教皇の正反対の嗜好や好みが垣間見られ、非常に対照的です。

世界遺産「アヴィニョン歴史地区」には、カトリック総本山時代の遺跡が多く残され、観光客を魅了し続けています。歴史的建築物は、フランス革命時代に倒壊したものも多かったのですが、可能な限り、復旧作業が続けられました。アヴィニョン司教座のある聖堂として建設された「ノートルダム・デ・ドン大聖堂」、美しい英国式庭園のある「ドン岩壁公園」、14世紀からある時計台など、アヴィニョンは見所に溢れています。

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