フランス世界遺産

パリのセーヌ河岸

フランスの首都・パリは、「観光都市」「ファッションの街」「芸術の街」と様々な形で表現されます。そして、私たちが知るパリの主要地域は、1991年に「パリとセーヌ河岸」という名前で、世界遺産に登録されています。私たちの多くは観光旅行でパリに行き、その美しい街並みや美味しい料理を堪能すると思いますが、実はフランスの偉大なる世界遺産をあちこちで目の当たりにしているのです。

パリの歴史は、紀元前3世紀頃に始まります。この頃、ケルト系民族のパリシイ人がパリの地に住み着き、集落ルテティアを形成していました。この「パリシイ人」が、後に「パリ」という地名の語源になります。国家・フランスの成立は、10世紀終わりのことです。この時代、パリ伯のユーグ・カペーがフランス王に推薦され、パリを首都にしたフランス王国を築きました。そして、パリの首都機能を強化していったのです。更にフィリップ2世の時代には、パリの周りを囲うように、城塞が築かれました。11世紀には、セーヌ川左岸に、後のパリ大学の前進となる「パリ大司教聖堂付学校」が造営され、その周辺は学園都市として発達し、セーヌ川右岸には中央市場が開かれました。この「左岸に大学の街、右岸に商人の街」という現在に至る町の構図は、この時代に築かれたのです。

もっとも、この時点では、現在私たちが目にするパリの光景からは程遠いものでした。フランスの首都・パリは、その後政治の中心をヴェルサイユに譲ることになり、更に1789年にはフランス革命が勃発し、戦火に紛れることになったのです。ヴェルサイユやパリはおろか、革命の影響はフランス全域に波及し、至るところで戦乱状態に陥り、多くの町や建物が破壊されました。パリが本格的に復旧し、あの美しい街並みを形成するようになるのは、19世紀に入ってからのことです。

フランスの首都・パリの都市整備を担当したのは、セーヌ県知事、ジョルジュ・オスマン(1809年~1891年)です。オスマンは、ナポレオン3世の時代に県知事の地位にあり、ナポレオンと共に壮大な都市計画を遂行しました。ナポレオン3世在位当時、パリでは不衛生な状態に悩まされていました。そこで、町に光を挿しこみやすくし、風通しをよくする計画を盛り込み、環境改善を図ったのです。またその一環で、建物の高さ制限が設けられ、街並みの統一化も同時に図りました。そのほかにも、「凱旋門」の通称でお馴染みの「エトワール凱旋門」から、12本の道を放射線状に伸ばし、細かく交通整備ができるようにしました。こうしてオスマンの元で、衛生状態や交通の不便さが改善され、更に、景観の美しい街並みを持つパリが誕生したのです。

世界遺産「パリのセーヌ河岸」に含まれるものは、私たちがよく知る建築物の殆どです。凱旋門、ルーヴル宮殿(現・ルーブル美術館)、オルセー美術館、エッフェル塔、シャンゼリゼ通り、ノートルダム寺院など、みな「パリのセーヌ河岸」として登録された世界遺産です。ですから、パリに行ったことのある人は、間違いなくどこかで、世界遺産にも認定された歴史的建築物を目にし、そのそばを通りすぎているのです。

パリをただ「きれいな町」「おしゃれな町」として認識するだけでなく、壮大な世界遺産の宝庫として見てみると、パリの新しい魅力がより一層見えてくるに違いありません。

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