中国世界遺産

秦始皇帝陵及び兵馬俑坑

古代中国において、初めて中国全土を統一したのは、王即位当時(紀元前246年)まだ13歳だった、秦の始皇帝です。始皇帝は、即位するとすぐに、自分の陵墓を造り始めました。その作業は始皇帝が死去する紀元前210年まで続けられてようやく完成し、自分の望み通り、始皇帝は自分の陵墓で永眠することになりました。

この「秦始皇帝陵墓」は、長い間誰にもその存在を知られることなく地中に埋もれていて、1974年、現地住民が井戸を掘る作業の最中、偶然発見されました。そして、始皇帝陵では皇帝埋葬の副葬品であった「俑」(よう)も同時に膨大な数が発見され、中国史を驚愕させる大発見になりました。こうして日の目を見ることになった「秦始皇帝陵と兵馬俑坑」は、その13年後、世界遺産に堂々と登録されました。始皇帝陵墓と兵馬俑坑が発見されたのは、陝西省西安の北東に位置する臨潼区です。

秦の始皇帝が中国を統一したのは、紀元前221年のことです。それまで中国の地では、楚・斉・燕・韓・趙・魏が争いを繰り広げていましたが、始皇帝はこれらの国を全て滅ぼし、中国全土を支配下に置きました。しかし、紀元前210年の巡幸中に、突然死去します。秦では、この突然の死を秘密裏に解決すべく策が講じられ、遺体の腐臭を誤魔化すために魚を大量に載せた車と共に陵墓まで移動しました。そして、何千もの兵士や馬の俑と共に、埋葬されたのです。兵馬俑が収められていた場所は、面積が2万km2にものぼる所です。また秦の始皇帝陵墓は、周囲25km、高さ100m以上、地下は30mも掘り下げられていて、「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」と呼ばれる地域がいかに広大な規模を持っていたかがわかります。それにも関わらず、約2000年間、その存在が全く発見されなかったのは、ある意味不思議なことです。「史記」や「漢書」では始皇帝陵墓の存在が明らかにされていましたが、長年場所を特定できずにいたのです。

1974年に、中国史上最大の発見となった「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」は、その後も更に発掘調査が続き、その調査の過程では驚くべき発見が積み重なりました。まず、3つの俑坑から成る兵馬俑坑では、戦車の俑が100台余り、馬の俑が約600体、そして武士の俑が約8,000体も発見されたのです。しかも武士の俑は全てが等身大で全く違う顔をしていて、全ての俑が東(当時敵国があった方向)を向いていたのです。また俑の一つ一つ丁寧にリアルに作られていることも、私たちを驚かせました。これらの発見を経て、秦王朝当時の人々の服装や生活様式などが特定できるようになり、紀元前の中国の様子が明らかになっていきました。現在でも、遺跡の分析作業は続いています。

世界遺産に登録されてから、「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」周辺は瞬く間に整備され、博物館が設けられて、私たちは多くの兵馬俑をそこで見ることができます。秦始皇帝陵墓は頂上まで登ることはできませんが、周囲を散策することはできます。「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」を訪れると、その圧倒的な歴史の重みに押しつぶされそうな、そんな人生でも稀な経験ができそうです。そして、これらの陵墓や兵馬俑坑の発見により、さらにその昔、世界四大文明の一つである「黄河文明」を知る扉が開かれた違いありません。

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