イタリア世界遺産

サヴォイア王家の王宮群

北西イタリアのトリノ近郊にある世界遺産で、イタリア統一運動(リソルジメント)の主力となったサヴォイア王家の王宮および周辺の宮殿のことを指します。

イタリア統一というのは、もちろんトップページでお話ししたエピソードのことです。サヴォイア王家とは、サルデーニャの王であり、同時に統一イタリアの王ともなったヴィットーリオ=ネマヌエーレ2世のいる家系。

元々保有していた領地であるピエモンテ地方付近にサヴォイア(後に大部分をフランスに割譲して読み方がサヴォワとなる)があり、そこがサルデーニャ王国の中心だったことからサヴォイア王家と呼ばれているんですね。

ちなみに、現行のイタリア共和国の首都はローマですが、統一されたばかりのイタリア王国時代はトリノが首都でした。

 では、王宮群を構成するそれぞれの建築物について簡単に解説していきます。

1.王宮・庭園

トリノ市街地の中心部にあるカステッロ広場にある王宮。シンメトリーのデザインで、王宮というより豪華な役所みたいな風貌です。

設計者はアスカニオ・ヴィトッツィとカルロ・モレッロ。王宮裏手の庭園を造園したのはアンドレ・ル・ノートルです。このアンドレ・ル・ノートルは庭園の設計者として非常に有名であり、フランス:ヴェルサイユ宮殿の庭園を造ったことでも知られています。

建てられたのは16世紀から17世紀頃と言われています。

2.マダマ宮殿

古代、ローマ帝国の砦として使用されていた場所に建っており、王宮と同じカステッロ広場に位置しています。その後、幾度となく修築・改築がなされ、18世紀にフィリッポ・ユヴァッラが現在の形に造りかえました。フィリッポ・ユヴァッラは教会建築の世界で知られる建築家であり、バロック様式の教会・礼拝堂をいくつも残した人物です。

ちなみに、トリノオリンピックではこのマダマ宮殿がIOC(国際オリンピック委員会)のラウンジとして使用されました。

3.カリャーノ宮殿

レンガ造りの建物で、19世紀前半まではサヴォイア王家の宮殿として使われました。その後、19世紀の後半からはサルデーニャ王国議会の議事堂として使用。現在は博物館になっています。

4.ヴァレンティーノ城

サヴォイア公エマヌエーレ=フィリベルトが16世紀に別荘として購入した城。(当時はまだサルデーニャ王国ではなく、前身のサヴォイア公国)このエマヌエーレ=フィリベルトは、他にもピエモンテ公・アスティ伯・ニース伯・キプロス王・エルサレム王などを歴任した人物。エマヌエーレ=フィリベルトは神聖ローマ帝国のカール5世の命を受けて、軍人として対フランス戦のために各地を転戦しました。一度はスペイン軍の将軍代理として、フランドル地方におけるスペイン軍最高司令官にも就任しています。(当時はスペインと神聖ローマ帝国が同君連合であり、フランスを挟撃する形で戦っていました)

ちなみにサヴォイア王家に伝わる「エマヌエーレ」という名前は、このエマヌエーレ=フィリベルトから始まったものです。

cf.同君連合

2つ以上の地域において同一の国王が兼任となっている場合に、その2地域が必然的に連合を組む関係になります。その状態が同君連合であり、同一の君主を持つ国同士の連合という意味です。

16世紀頃は、神聖ローマ帝国とスペイン王国はいずれもハプスブルク家が王位を継承しており、この時代の神聖ローマ皇帝カール5世とスペイン国王カルロス1世は同一人物。カール5世の次代は神聖ローマ皇帝が弟のフェルディナント1世、スペイン王国が息子のフェリペ2世でした。息子のスペイン王フェリペ2世は、スペインを強大な覇権国家へと成長させ“太陽の沈まない国”と称される一大王国を築いたことで知られています。

5.モンカリエーリ城

中世に建てられた古城で、後に修築・改築が施されて現在の形になりました。

6.リヴォリ城

14世紀から存在する軍事用の城。15世紀以降は居住用へと改築されました。現在は、すぐ横に美術館が建てられています。

7.カッチャ宮殿・ストゥピニージ宮殿

フィリッポ・ユヴァッラが設計した、狩猟などの余暇に用いる城。後に拡張されて現在の形状になりました。現在は美術館・博物館となっています。

【コラム:サヴォイア王家】

さて、皆さんは現在のイタリアが「イタリア共和国」であって「イタリア王国」ではないことをご存知かと思います。トップページでも紹介した、かの偉大な国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の後、イタリア王家に何があったのでしょうか?

初代イタリア国王:ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世

彼にまつわるお話は、トップページを参照してください。イタリア統一の道筋と、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の人徳・偉大さの分かるエピソードを掲載しています。

2代イタリア国王:ウンベルト1世

ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の子です。

統一こそされたものの、南部の貧困がなかなか解消しないなどの問題を抱えていたイタリア王国では、パンの価格高騰などに対するデモが連日行われるようになりました。ウンベルト1世はイタリアの国力増大にばかり目がいく国王であり、内政への対処がどうも後手後手に回っていたようです。

さらにウンベルト1世は、デモに対して発砲して300人以上の死傷者を出した将校に「秩序回復の功労者」として勲章授与するなどの行為で、民心を失っていきました。

在位中に幾度も暗殺未遂があるほどの不人気だったウンベルト1世は、1900年の8月――ついにイタリア系アメリカ人の青年に射殺されます。これにより、在位中に暗殺された唯一のイタリア国王となったのでした。

3代イタリア国王:ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世

若い頃は、議会に多くをゆだねて政務を執ることはほとんどない国王として知られていました。これは父王が暗殺されたことから、民衆の意見を重視する選択をしたためだと考えられています。

しかし、徐々に議会政治に不満を募らせたヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は、第一次世界大戦に参戦するか否かをめぐる議論の中で、ついに国王の意志で議会決定を拒絶するに至りました。これは、第一次大戦における中立を望む世論の後押しを受けて、参戦を主張するサランドラ首相の解任決議がなされたものでしたが、国王の拒絶で一転、第一次大戦に三国協商側として参戦しました。

結果、協商国が勝利して、当時“未回収のイタリア”と呼ばれていた地域(南チロル・トリエステなど)を併合。結果を出したことで国民の支持も取り付け、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世の立場は保たれました。

しかし、第一次大戦の戦費は重くのしかかり、また“未回収のイタリア”とされる地域もダルマチア・フィウメなどの併合は叶いませんでしたから、国民の生活はやはり安定しませんでした。この国民――特に貧困層の不満は、やがて無政府主義や社会主義革命への期待へと変わりかねず、王族・貴族・富裕層にとっては決して良い状況ではありません。事実、ロシアでは既にソビエト連邦が成立しており、民衆の爆発的な不満が社会主義革命を招くことが証明されている時代でした。

ここで、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党への接近を選んだのです。国王とムッソリーニは共同で元帥となってイタリアの全権を掌握、軍事的な覇権主義で植民地を獲得し、国力を回復させようと試みました。

しかし、戦力の整わない状況で強引に始めた第二次世界大戦では初期から苦戦が続きました。(日本やドイツのように序盤のうちは快進撃を続けるということさえありませんでした)植民地を広げようとアフリカに進軍して追い返され、ドイツが止めるのも聞かずにバルカン半島に進出してギリシア軍に包囲され、といった状況だったようです。(このギリシアで孤立したイタリア軍を救援していたためにドイツの対ソ攻撃開始が遅れ、そのせいで冬が来る前にソ連を攻めきることが出来ずスターリングラードで大敗を喫したとさえ言われています)

イタリアはリビアなどの植民地を失い、連合国軍がシチリアに上陸してきました。1943年にはローマ空襲が始まり、敗色が決定的になります。ムッソリーニは政権を追われ、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は南部へ逃れて連合国と休戦交渉を開始。その後はナチス=ドイツが監禁されていたムッソリーニを救出して北イタリアにイタリア社会共和国(RSI)を樹立、イタリア南部はイタリア王国のまま休戦を模索するという分裂状態となりました。

ヒトラーは、降伏したイタリア王国を激しく非難し、南イタリアに対する攻撃を開始。イタリア半島はファシストによるイタリア社会共和国(RSI)と南部のイタリア王国との間で内線状態にまで発展します。
この内戦の中で、失意のヴィットーリオ=エマヌエーレ3世はエジプトへ隠遁。摂政として息子のウンベルト2世がイタリア王国を引き継ぎました。

4代イタリア国王:ウンベルト2世

摂政となったウンベルトは自由イタリア軍を組織してムッソリーニ政権と戦い続け、連合国軍の協力もあって最終的に北イタリアを解放しました。こうして、正式にイタリア王故国は第二次世界大戦から離脱したのです。また、こうした連合国への協力的姿勢が評価されたこともあって、後の国際連合では敵国条項にイタリアが入ることはありませんでした。(ちなみに日本とドイツは2011年現在も、まだ国連の敵国条項に入っています)

戦後、王家がファシスト党に荷担したことを批判する声が大きくなり、王制存続の可否を決める国民投票が行われることになりました。この時点では、まだ正式な王位はヴィットーリオ=エマヌエーレ3世になりましたが、失政続きの国王では王制廃止に票が流れるのは明らかでした。ここでようやく、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世が正式に退位することになり、ウンベルト2世がイタリア国王に即位したのです。

しかし、それでも国民投票の結果は王制廃止54%・王制存続47%。わずかの差で廃止が決定し、ウンベルト2世は退位。サボイア王家の国外追放が決まりました。ウンベルト2世の国王在位期間は1946年の5月9日から6月12日、実に1ヶ月あまりという短さでした。

この後、王家はポルトガルに亡命。サヴォイア家一族のイタリア入国禁止が解かれたのは、2002年のことでした。

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